【名前】ゆうた
【年齢】23歳(1996年生まれ)
【出身地】愛知県のどこか
【バイト、職歴】CoCo壱(高校生)、海上自衛隊(3年間)、派遣社員(3ヶ月間)、オーストラリアの農場(4ヶ月間)、オーストラリア一風堂(6ヶ月間)、フィリピン語学学校スタッフ(6ヶ月間)、祖父の経営する会社にて管理(現在)
【モットー】もう二度と誰かの下では働かない(と言いつつ働いている)
【尊敬する人】ホリエモンさん、Youtuberラファエルさん、鴨頭 嘉人さん
英語学習に至った経緯
小学校から遡っていきましょう。
筆者の英語学習道は小中高、社会人と全ての過程が繋がっています。
小学校時代
僕は小学生時代、特に目立たない地味な青年でした。
この頃の将来の夢は水泳選手とたこ焼き屋さんでした。
4歳から水泳を習っていて自分は最強の水泳選手になれると信じていました。
たこ焼き屋さんになりたいというのは当時たこ焼きが死ぬほど好きだったというのと、水泳選手だけでは生活をしていくための生活費を稼ぐことができないと分かっていたからです。
これらが理由のために中学でも水泳を続けることとなった。
中学校時代
この頃、水泳部に所属していた僕は悟った。
まさか自分が約20人いる部員の中で後ろから1番、2番を争う位置にいたということを。
大会どころか練習で精一杯。
1周遅れなど当たり前。
同級生どころか後輩にも楽々と抜かされてしまう。
ということで水泳選手の夢は諦め、オンラインゲーム「メイプルストーリー」に熱中した。
ゲーム内で知り合った人に色々とプラグラムについて教えてもらった。
ちょっとしたプログラムを作成し、お金を稼ぐことにも成功していた。
そして当時流行っていたブラッディマンデイのハッカー(三浦春馬)に憧れ、この頃の夢はプログラマーとなった。
偶然にも家の近くにはIT専門の高校があったので、そこを選択した。
少し自分には高レベルな学校であったために必死に勉強して晴れて入学することができた。
高校生時代
高校へ入学して半年後、僕はまたしても悟った。
自分にはプログラミングは向いていない。
覚えることが多いのは承知の上であったが、何よりあの大量の文字を見ていると頭がクラクラしてしまう上に少しでもミスをするとプログラムが動かない。
そして今度は大量の文字の中からミスを見つけ出すという作業、これは無理だ。
それ以降目標を失い、授業後は家に帰宅し、友達とオンラインゲームを朝まで無睡で行った。
学校に登校しては授業始まりから終わりまで睡眠。
こんなダメダメではあるが、最高に楽しかった高校時代を過ごした。
そしてついに志望校、志望就職先を選択する時期がやってきた。
大学に4年間通って勉強するくらいなら、その時間仕事をして収入を得ながら生活したいと思ったために、自動車部品系の工場で、普通に働いて、普通に家庭を築いて、普通に生きていこうと思っていた。
しかし、偶然にも仲の良かった友達が、航空自衛隊に行くと言い出したのだ。
当時は東日本大震災もあり、自衛隊の活躍が広まっていた時でもあった。
その友達に自衛隊について色々聞き、自衛隊に入隊したいと思った。
ということで高校3年生の4月私の将来の夢は急遽、自衛隊となった。
当時の僕の頭では試験を通過することができそうになかったので、家庭教師を親に雇ってもらい、猛勉強に励んだ。
陸海空とある中で友達3人とじゃんけんをして僕は負けたために海上自衛隊という選択になった。幸運にも海上自衛隊は当時定員割れしていて、一番入れる確率が高かった上に、猛勉強に励んだため、その甲斐あって無事にギリギリ合格することができた。
そして晴れて海上自衛隊員となった。
社会人時代
親と友達と故郷と離れ、愛知県から神奈川県へと移動。そして1人暮らしを始めた。
陸海空共に、入隊して数ヶ月の間自衛隊員となるために訓練施設へと行かなければならない。
海上自衛隊の場合は約6ヶ月間。
その間1日10キロ走ったり、銃を撃つ訓練をしたり、腕が上がらなくなるまで腕立てをしたり、お尻の皮が剥けて血が出るまでカッター(エンジンのついていない小型船)を漕いだり、22時以降は勉強をしたくてもできないためにトイレに行って勉強したり、火傷するくらい毎日アイロン掛けしたり、教官に見つからないようベッドの中で服を着替えたり、今までで一番厳しく、濃い6ヶ月間を過ごした。
そしてついに僕は護衛艦へ機械員として配属された。
護衛艦では約2年6ヶ月の間、海の上での生活約1年半、陸上での生活約1年の間たくさんのことを経験した。
半年間休み無しでずーっと海の上の生活。
2年間付き合っていた彼女に海の上で振られる生活。
1ヶ月間毎日のようにキャバクラに友達と通い150万円使った生活。
もちろん楽しいこともたくさんあったし、ものすごく尊敬できる先輩にも出会うことができたし、辛い経験もたくさんした。
しかし、僕はまたまたしても悟ってしまった。
このまま海の上で一生を終えていいのか?
この狭い環境に40年という長い期間身を捧げていいのか?
この先輩達のようにそこそこのお金をもらって、普通の家庭を築いて、退職して、時間が流れ、一生を終えていいのか?
いや、そうじゃない。
もっと自由に生きたい!
もっとお金が欲しい!
誰かに指示をされて動くのではなく自分自身に従って動きたい!
そして何より英語を話せるようになりたい!?
真剣に人生を考えている中で、急に私は思ったのだ。
英語を話せるようになりたいと。
そして決断した、英語留学をしようと。
情報を得るためにインターネットで色々と検索し、仲介業者さんに電話をして、留学先を決めた。
そこで初めてフィリピンと出会った。
フィリピン留学は費用が安く、質が高いので有名だからだ。
幸いにも2年6ヶ月の間お金を使う時間が全くなく、それなりに貯金があったために、留学することができた。
そして次の将来の夢はEnglish Speakerとなった。
そして仕事を辞めよう、英語を勉強しようと思った1ヶ月後に辞職の手続きを踏み、フィリピンのダバオへと語学留学することとなった。
フィリピン留学時代
当初1ヶ月のフィリピン留学を予定していた。
1ヶ月もあれば英語が話せるようになるとインターネットには書いてあったし、色々な人から聞いていたからだ。
留学中、必死に必死に勉強した。
1日の睡眠時間は3、4時間で勉強した。
もちろん1ヶ月で話せるようになるわけなんてなかった。
「誰だよ、こんな嘘情報を書いたのはと思った、腹も立った。」
しかし、よく考えてみたら1ヶ月1言語話せるようになったら1年で12言語、10年で120言語。世界どこに行っても会話できるようになる。
そんなこと100%不可能だ。
でも仕事も辞めたし、英語を話せるようになってくると言って実家を離れて来たので、当然帰っても仕事の宛てもなく、乏しい英語能力で実家に帰っても笑われるだけなので、延長に延長を重ねた。
そして遂にお金が全て尽きるまで延長し、結局9ヶ月間フィリピン留学することとなった。
フィリピンでは英語の勉強だけではなく、文化、お金についてもとても良い勉強になった。
大胆に髪の毛を染めたりもしてみた。
Before
After
みなさんも知っている通り、フィリピンは貧しい国の1つでもある。
給料も日本円にしたら平均月収2、3万円ほどである。
そんな中みんなものすごく楽しく人生を生きている。
日本の電車の中では誰も話していないし、居眠りをしている。
フィリピンであれば電車に値するのが乗り合いタクシー(ジプニー)であり、その中では知らない人通しで話したり、電話したり、騒がしいのだ。
確かに日本は経済的には豊かであるが、精神的には乏しい国だと自覚した。
それもやはり厳しすぎる世界、彼らには人生を楽しむ時間がないのだ。
僕も含め一度社会へ出た人であれば誰しもが直面する一面だと思う。
僕はこの日本特有の風潮から抜け出したいと心から思った。
ということで9ヶ月のフィリピン留学中にできた次なる将来の夢は、英語を完璧に話せるようにし、自分の会社を設立し自由に生きることとなった。
ワーキグホリデー時代
フィリピンから日本へ帰国。
この頃所持金はほぼ0に近い。
でも海外に行って、英語をもっと勉強したいと思っていたために、海外で仕事をすることを選んだ。
とはいえ、どうしたら良いのかわからないために、インターネットで調べたところ、ワーキングホリデー制度というものを知った。
オーストラリアは時給が日本のおよそ2倍ある上に、英語を話す国だと情報を得た。
そして日本へ帰国して1週間経たぬうちにオーストラリアへ行くことを決断し、VISAを取得した。
フィリピンに3ヶ月以上滞在していたためにVISAを取得するのに1ヶ月ほどかかったために、その間必死にアルバイトをして初期費用を貯めた。
そして1ヶ月後、オーストラリアへと旅経った。(当初所持金10万円ほど)
オーストラリアへ到着後に仕事探しを始めたが当然簡単に手に入れる事はできず、所持金は0円になりかけた。
そんなピンチな時にフィリピン留学時にお世話になった先生から、以前生徒として来ていた生徒がファームを経営しているからそこに行ってみたらとオファーしてくれ、そこへ行くこととなった。
ファームは悪徳なところが多いために不安でいっぱいだったが、幸いにも私の行ったところは給料もそこそこ良く、食いつなぐことができ、貯金もすることができた。(貯金30万円)
その後、世界一住みやすい場所メルボルンへと移動し、地獄の生活が始まった。
せっかくオーストラリアに来たのに日本食レストランで働いても意味がないと感じ、2週間必死に日本人のいない職場を探し回ったが、ファームで貯金した30万円は家賃や生活費で無くしてしまい、又しても所持金はほぼなし。
やむを得なく日本食レストランで働くことに。
又しても運が良く、2つの日本食レストランから採用してもらえ、1つは日本でも有名なラーメン屋さんの一風堂であった。
オーストラリアの一風堂は日本人があまり働いていないローカルレストランに近かったのだ。
従業員の中にはオーストラリア生まれの日本人、中国人がたくさん働いていたり、日本人でもオーストラリアの大学で勉強しているような英語が当たり前のように話せる人しかいなかった。
一風堂ではウェイターとして午前中雇ってもらえ、もう1つの日本食レストランではキッチンスタッフとして雇ってもらえた。
仕事をしてお金をもらいつつ、英語スキル、接客スキル、料理スキルを学べるなんて最高なことであった。週6〜7日、朝8時〜夜23時まで6ヶ月間必死に働いた。
ここで僕はまたまたまたまたしても悟った。自分の英語が全く通じない。
フィリピンで9ヶ月必死に英語を勉強した自分の英語が全く通じなかったのだ。
いざオーストラリアのレストランで当たり前のように英語を使う場所で働いてみたら全く通じなかったのだ。
何よりもテンポよく話をしていく同僚の会話に入っていけなかった。
あまりの恥ずかしいさに声も小さくなり、週1ほどある飲み会は避けるようにし、極力参加しないようにした。
とはいえ、働いてお金をもらわなければ貯金もないので必死に働いた。
オーストラリアの給料は良いと聞いていたのでたくさん貯金を貯めることができると思っていたが、物価も高いために貯金は多くも少なくもなく約50万円となった。そしてビザの有効期限もほぼなくなり、どうしようかと考えている時に、フィリピン留学をしていた学校から日本人学生マネージャーをやらないかとオファーが来たのだ。
僕は18カ国ほど行った経験があるが、中でもフィリピンは大好きで、日本に帰ってもやることがないのでオーストラリアから直接フィリピンへと戻ることに決めた。
ワーホリ中に見つけた次なる将来の夢は、自分にあった職種を探すこと、事務の仕事をして経験を得ることとなった。
学生マネージャー時代
学生マネージャー時代、僕の仕事は、日本の仲介業者とEメール、新しく来る生徒さんの対応、英語が初心者の生徒さんの通訳などでした。
仕事を始めて3ヶ月は良かったのですが、3ヶ月を経過したところでめんどくさくなってしまった。
英語の通訳、勉強の仕方を教えるのにはやりがいを感じてとても楽しかった。
だが、その一方で日常生活ではものすごくストレスに感じた。
毎週新しい生徒さんが来て、毎回毎回同じことを教える。
近くのコンビニ、スーパー、モールはどこにあるのか。
日本の仲介業者とは毎日敬語でメールをする。
今まで事務仕事は経験して来なかったために日々言葉の使い方について勉強になった。
特に”当社、貴社、弊社、御社”という言葉はあまり馴染みがなかったので勉強になった。
ここで僕はまたまたまたまた悟った。(何回目だろう?)
事務系の仕事は向いていないと。
いちいち敬語でメールを返信するのはめんどくさいし、毎回新しい生徒さんに教えるのもめんどくさい。
誰かの下で働くのも、事務の仕事も別にできなくはないが、やりたくはない。
やはりワーホリ中にフィリピン留学時代に決めたように、自分で会社を作ろう!
英語の勉強もそこそこやり、そこそこ話せるようになったので、次なる将来の夢は、自分の会社を設立することとなった。
そこで次はどうしたら良いのだろうと考えた結果、フィリピンにはたくさん日本食レストランがあるが高い。
フィリピン人学生向けに安い日本食を提供しよう。
フィリピン人が毎日のように食べるカップラーメンをお店で提供しようと決断した。
早速フィリピンのダバオ市内でレストランを経営している友達の日本人にアドバイスをもらい、コストを計算。
もちろん現時点で所持金はゼロのために、一度日本へ帰国してお金を貯めることを決断した。
2回目社会人時代(現在)
フィリピンで屋台開業予定と同時進行で祖父、父親の経営する塗装会社にて勤務する事となった。
副業としてフィリピン屋台という方向で自分の中では方針が進み、現在は貯金中。
2020年5月 フィリピンのダバオにて出店予定